日本漢方の歴史と中国の漢方薬
現在、漢方薬は現代医療の一端を担うようになっているですが、「漢方」という言葉は皆さんが思っているほど古い言葉ではなく、世界に通用する言葉でもありません。日本で漢方は、江戸時代末期にオランダから伝わった西洋医学「蘭方」と区別するために生まれた言葉で、それ以前は流派で呼んでいました。本家とされる中国では「中医学」と呼び、漢方とは言いません。
太古の人類は病気になった時、野生動物と同じように薬草を噛んでいました。 洋の東西を問わず、狭い地域の中から経験的に薬を選んでいたのは同じです。(その後、西洋は有効成分を取り出す方向に、東洋は薬草や薬石を組み合わせる方向に分かれていきます。) 中国の戦国時代に以後の様々な学問の元となった陰陽哲学が集大成されます。 これと薬が結びついたのが漢方の源です。
中国の後漢の時代になって、長沙という郡の長官の張仲景(ちょうちゅうけい)は、2百人あまりいた親族の3分の2を10年ほどの間に亡くし、その内の7割が傷寒(伝染病など急性の熱性疾患)が原因でした。そこで発憤して、当時の医方、薬方を集成して「傷寒論(しょうかんろん)」をつくったのです。これは最古の漢方薬物療法書であり、後世に大きな影響を与えました。特に日本の漢方では歴史を通じて重要視されてきました。現代においても葛根湯(かっこんとう)、小柴胡湯(しょうさいことう)など収載処方の多くが実際によく使われています。
日本に漢方が伝わったのは大和時代ですが、当時は貴族のみしか使えませんでした。特権階級から庶民に広まり始めたのは安土桃山時代で、当時の治方は温補養陰を重視するもので「後世派」と呼ばれています。徳川家康が薬好きだったこともあって、江戸時代に入り日本の漢方は大発展します。
当時の日本は鎖国をしていたために一部の薬草は入手が著しく困難になり、学問的な交流も激減します。ここから日本の漢方は中国と少し違った方向に進むことになります。やがて、根源の理論である陰陽五行を重視して攻撃的な治方を行う「古方派」や、後世派と古方派の長所を合体させようとした「折衷派」が登場します。
明治時代に入って、西洋のものは優れ東洋のものは劣っているという尊欧蔑亜の考えが台頭し、その思想が医療にも影響して西洋医学のみが医療であると時の政府が決定します。昭和の中期になって西洋薬で重い副作用が出たりすること、身体のバランスを考えた治療が難しいことなどがあって、西洋医学の限界が叫ばれるようになり漢方医学と漢方薬に再び脚光が浴びるようになってきたのです。











